社会

桓武天皇かんむてんのうはなぜ都みやこを移うつした? — 「鳴なくよウグイス平安京へいあんきょう」の裏側うらがわ

「鳴なくよ(794)ウグイス平安京へいあんきょう」。年号ねんごうはみんな言いえます。でも本当ほんとうにおもしろいのはその先さき、「なぜ桓武かんむ天皇てんのうは都みやこを移うつさなければならなかったのか」です。

強つよくなりすぎた寺院じいんの力ちからから、政治せいじを切きりはなした

奈良ならの都みやこ・平城京へいじょうきょうでは、国くにを仏教ぶっきょうの力ちからで守まもろうとする政策せいさくのもと、大おおきな寺院じいんが次々つぎつぎと建たてられました。ところが時代じだいがたつにつれ、寺院じいんや僧そうは朝廷ちょうていの政治せいじに深ふかく入はいりこみ、その影響えいきょう力りょくは天皇てんのうの政治せいじをゆるがすほどになっていきます。僧そうの道鏡どうきょうが天皇てんのうの位くらいさえうかがったとされる事件じけんは、その象徴しょうちょうとしてよく語かたられます。

そこで桓武かんむ天皇てんのうは、寺院じいんの勢力せいりょくが根ねを張はった奈良ならの地ちそのものから離はなれることを選えらびました。794年ねん、都みやこを今いまの京都きょうと市しにあたる平安京へいあんきょうへ移うつします。「平安へいあん」という名前なまえには、争あらそいのない平たいらかな世よの中なかへの願ねがいがこめられています。政治せいじをやり直なおすための、思おもいきった引ひっこしだったのです。

寺院が政治に口出しする平城京から寺院を離れた平安京への遷都の2コマ図

新あたらしい都みやこは、唐とうの都みやこがお手本てほん

平安京へいあんきょうは、当時とうじの中国ちゅうごく・唐とうの都みやこ長安ちょうあんをお手本てほんに、道路どうろが碁盤ごばんの目めのように走はしる計画けいかく都市としとしてつくられました。これは平城京へいじょうきょうも同おなじで、「都みやこのモデルは長安ちょうあん」は奈良なら・平安へいあんを通つうじた共通きょうつうポイントです。以後いご、平安京へいあんきょうは約やく1100年ねんものあいだ都みやこであり続つづけました(東京とうきょうへ移うつるのは明治めいじ時代じだい)。

唐の長安をお手本に碁盤の目状につくられた平安京の俯瞰図

あわせて覚おぼえる: 桓武かんむ天皇てんのうのもう一ひとつの大仕事おおしごと

桓武かんむ天皇てんのうは都みやこを移うつしただけでなく、東北とうほく地方ちほうの平定へいていにも力ちからを入いれ、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろを征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命にんめいして蝦夷えみしの地ちへ送おくりました。「桓武かんむ天皇てんのう=平安京へいあんきょうと東北とうほく平定へいてい」の2点てんが、この時代じだいの軸じくになります。

平安京から東北へ坂上田村麻呂を送った東北平定の地図

覚おぼえ方かた

794年寺院から離れる・坂上田村麻呂=東北平定の暗記カード

おもな参考情報